日蓮                         清澄寺
日蓮宗は日蓮によって開かれました。
日蓮は12歳で天台宗の清澄寺に登り修行していましたが21歳の時に上洛、京都・大阪・奈良等を遊学して回りました。
そして比叡山にて勉学中に末法の世を救うのは「法華経」しかないと悟りました。
32歳で清澄寺に戻った日蓮は、日蓮宗を開宗しましたが「法華経」こそが唯一の教えと説いたため他宗の反感を買い、また、幕府の宗教政策の批判も行ったために伊豆・佐渡へと流罪を受けることに
なりました。
53歳で流罪を赦免され身延山にて布教をするも61歳で病により入滅されたそうです。
日蓮の没後は日昭・日郎・日興・日向・日頂・日持の六僧が中心となって布教を行っていましたが、日興が他の五僧と断絶し富士門流を興す事となる。
富士門流は1900年に日蓮宗からも独立し日蓮正宗となりました。

日蓮正宗
そのため、日昭・日郎・日向・日頂・日持ら五僧の門流が現在の日蓮宗となっています。

日蓮宗の教え
日蓮宗の教えを分かりやすく言えば、題目を唱えれば、即身成仏できるというものです。これを「唱題成仏」といいます。
題目とは『法華経』を表す『妙法蓮華経』に帰依を意味する「南無」をつけた南無妙法蓮華経」のことです。
天台宗に教えられる一念三千は、観法の修行によって体得しなければなりません。
お釈迦さまが亡くなってから1500年以上が経った末法の時代になると、そのような難解なことは、誰もできなくなります。
この天台宗の一念三千を「理の一念三千」と名づけ、 題目を唱えることを「事の一念三千」として、この事の一念三千によって、題目を唱えている人にお釈迦さまの功徳が自然に譲り与えられて成仏できるという教えです。
ただし、単に『妙法蓮華経』に帰依するだけでなく、妙法蓮華経の5字に、すでに果てしない過去に成仏されていたお釈迦さまの修行の功徳と、仏のさとりが備わっていると信じて帰依しなければなりません。
また、体も口も帰依が必要です。中でも特に信心を強調します。
そして題目を唱えれば、悪人でも成仏すると説き、即身成仏すれば、その人のいるところが常寂光土になると教えています。

独創的な日蓮宗
日蓮宗の極めて独創的なところは、教えの根拠が、お釈迦さまの説かれた一切経に存在しないことです。
仏教とは、お釈迦さまが35才で仏のさとりを開かれて、80才でお亡くなりになられるまでの45年間説かれた教えを仏教といいます。
ところがお釈迦さまの説かれたすべてのお経を一切経と言われ、その数は七千余巻といわれます。
それががあまりにも多いために、その理解の違いによって、仏教は色々な宗派に分かれています。
ですからもし仏教の宗派であれば、お釈迦さまの説かれた経典上に根拠がなければなりません。
ところが、お釈迦さまが「題目を唱えれば成仏できる」と説かれたお経は存在せず、それどころか「南無妙法蓮華経」さえも、 一切経に一回も出てこない言葉です。
やはりそれはさすがにまずいという自覚があるためか、「南無妙法蓮華経」という言葉は、『法華経』の寿量品という章の文章の底に秘められていると教えています。
つまり文章上にはどこにもありません。
「文底秘沈(もんていひちん)」などと言い出せば、 何でもありですから、 好きなことを言えるようになってしまいます。
「南無阿弥陀仏」であれば、一切経に何回も説かれているのですが、「南無妙法蓮華経」となると、一切経のどこを探しても存在しないということが日蓮自身も分かっているようです。
このように、日蓮宗の教義は、32才頃の日蓮が新しく考えたまったくの独創によるものです。

日蓮宗の教義
日蓮は、40才を過ぎると、 仏教のあらゆる宗派を否定するようになります。
これを四ヵ格言と言い、「念仏無間(ねんぶつむけん)禅天魔(ぜんてんま)真言亡国(しんごんぼうこく)律国賊(りつこくぞく)」の四つです。
「念仏無間」とは、浄土真宗や浄土宗で勧められる念仏は無間地獄に堕ちるたねまきだ。「禅天魔」とは、禅宗は天の魔物だ。「真言亡国」とは、真言宗は国を亡ぼす。「律国賊」とは、お釈迦さまの戒律を守る律宗は国賊だ、ということです。
これは単に、他の宗派をやめて『法華経』へ帰依するように勧めているのでしょうか?そうではありません。
50才を過ぎて、弘安元年に書いた「上野殿御返事」という手紙には日蓮宗の教学上、非常に重要で、日蓮宗の人なら多くの人が知っている言葉が書かれています。
それが「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」です。
余経も法華経もせんなしとは、法華経も、それ以外のお経も、 助からないということですから、法華経以外の宗派はもちろん、法華経も含めたすべての仏教の宗派を否定して、お釈迦さまの説かれたお経のどこにもない題目を勧めています。
ですから、日蓮宗のお経は、『法華経』のようでいて、『法華経』でもなく、一切経の中に拠り所となるお経は一つもありません。
このように、日蓮宗について知れば知るほど、 仏教から逸脱していることが分かります。
全仏教を否定していながら、仏教といえるのでしょうか?
日蓮宗と日蓮正宗の違い
日蓮宗の本尊は、一応『法華経』に説かれる本仏のお釈迦さまです。それを文字による曼荼羅で表現しています。
ところで日蓮は、もともと「私は上行菩薩の生まれ変わりである」と自分で言っています。
上行菩薩とは、本仏釈尊によって久遠最初に教えを受けて菩提心をおこさせられた、お釈迦さまの弟子です。
ところが日蓮宗の一派である「日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)」では、お釈迦さまではなく、日蓮が本仏だと主張しています。
「本仏」とは、根本の仏ということで、日蓮のほうが、お釈迦さまよりも偉いということです。
このようなことは、日蓮宗の中でも、日蓮正宗と、 日蓮正宗から破門されて分かれた創価学会が言うことです。そのことからこの2つは、日蓮を日蓮大聖人と呼んでいます。
ここまで行くと、なぜ仏教を名乗れるのでしょうか?
もちろんこのような日蓮宗の教えは、お釈迦さまの説かれていないことですから、今日まで題目を唱えて即身成仏できた人は一人もいません。
新興宗教の開祖で仏のさとりを開いたと主張する人は多くありますが、「釈迦の前に仏なし 釈迦の後に仏なし」といわれるように、 自他共に認める仏は、地球上でお釈迦さまただ一人です。
では、お釈迦さまの説かれた『法華経』には、本当はどんなことが教えられているのでしょうか?
『法華経』には、すべての人が救われると説かれているのですが、自力の教えですから、やはり大変な難行を非常に長い期間行う必要があり、「難信難解第一」と説かれています。
ですから『法華経』には 「この法華経は深智の為に説く、浅識はこれを聞いて迷惑して悟らず、一切の声聞及び辟支仏は、この経の中においては、力及ばざるなり」と説かれています。
現代人の私たちよりもはるかにすぐれた声聞や縁覚のような人でも、法華経では力及ばないということです。
また、「無智の人の中に於てはこの経を説くことなかれ、もし利根にして智慧明らかに多聞強識にして仏道を求むる者あらば、かくの如き人の為に説くべし」とも説かれています。
過去世にすでに長期間修行を積んできた智慧利根の人のためのお経なのです。
ですから、『法華経』には、その教えを実践する人が守らなければならない3つの規則として、室・衣・座が説かれています。
「室」とは一切の人々に大慈悲をもって接すること。
「衣」とはどんなに苦しいことでも笑って忍ぶこと。
「座」とは一切のものに対する執着を断つこと。
この3つを守り続けることができるでしょうか?
そのため、『法華経』の嘱累品という章には、「法華経を信じえない者の為には如来の余の深法を教えよ」と説かれています。