曹洞宗とは
今から八百年ほど前の鎌倉時代、道元禅師(どうげんぜんじ)が正伝の仏法を中国から日本に伝え、瑩山禅師(けいざんぜんじ)が全国に広められ曹洞宗の礎を築かれました。
このお二方を両祖と申し上げ、ご本尊であるお釈迦さまとともに一仏両祖として仰ぎます。
曹洞宗は、お釈迦さまより歴代の祖師方によって相続されてきた「正伝の仏法」を依りどころとする宗派です。
それは坐禅の教えを依りどころにしており、坐禅の実践によって得る身と心のやすらぎが、そのまま「仏の姿」であると自覚することにあります。
そして坐禅の精神による行住坐臥(「行」とは歩くこと、「住」とはとどまること、「坐」とは坐ること、「臥」とは寝ることで、生活すべてを指します)の生活に安住し、お互いに安らかでおだやかな日々を送ることに、人間として生まれてきたこの世に価値を見いだしていこうというのです。

教義
私たちが人間として生を得るということは、仏さまと同じ心、「仏心」を与えられてこの世に生まれたと、道元禅師はおっしゃっておられます。
「仏心」には、自分のいのちを大切にするだけでなく他の人びとや物のいのちも大切にする、他人への思いやりが息づいています。
しかし、私たちはその尊さに気づかずに我がまま勝手の生活をして苦しみや悩みのもとをつくってしまいがちです。
お釈迦さま、道元禅師、瑩山禅師の「み教え」を信じ、その教えに導かれて、毎日の生活の中の行い一つひとつを大切にすることを心がけたならば、身と心が調えられ私たちのなかにある「仏の姿」が
明らかとなります。
日々の生活を意識して行じ、互いに生きる喜びを見いだしていくことが、曹洞宗の目指す生き方といえましょう。

曹洞宗の坐禅

曹洞宗の教えの根幹は坐禅にあります。
それはお釈迦さまが坐禅の修行に精進され、悟りを開かれたことに由来するものです。
禅とは物事の真実の姿、あり方を見極めて、これに正しく対応していく心のはたらきを調えることを指します。
そして坐ることによって身体を安定させ、心を集中させることで身・息・心の調和をはかります。
曹洞宗の坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」、ただひたすらに坐るということです。
何か他に目的があってそれを達成する手段として坐禅をするのではありません。
坐禅をする姿そのものが「仏の姿」であり、悟りの姿なのです。
私たちは普段の生活の中で自分勝手な欲望や、物事の表面に振りまわされてしまいがちですが、坐禅においては様々な思惑や欲にとらわれないことが肝心です。
道元禅師はまた、坐禅だけではなくすべての日常行為に坐禅と同じ価値を見いだし、禅の修行として行うことを説かれています。
修行というと日常から離れた何か特別なことのように聞こえますが、毎日の生活の中の行い一つひとつを坐禅と同じ心でつとめ、それを実践し続けることが、私たちにとっての修行なのです。

曹洞宗の歴史

 永平寺
道元禅師の精神は、その後をついだ永平寺二代の孤雲懐弉(こうん えじょう)禅師、永平寺三代で加賀(石川県)の大乗寺(だいじょうじ)を開かれた徹通義介(てっつう ぎかい)禅師を経てその弟子瑩山禅師に受け継がれました。
そして瑩山禅師のもとには、後に能登(石川県)の永光寺(ようこうじ)を継いだ明峰素哲(めいほう そてつ)禅師、總持寺を継いだ峨山韶碩(がさん じょうせき)禅師が出られ、その門下にも多くの
優れた人材が輩出して、日本各地に曹洞禅が広まっていったのす。
特に今一つの中国禅宗の流れをくむ臨済宗(りんざいしゅう)が、幕府や貴族階級など、時の権力者の信仰を得たのに対し、曹洞宗は地方の豪族や一般民衆の帰依を受け、もっぱら地方へと教線を伸ばしていきました。
すなわち、鎌倉末期から室町時代にかけては、臨済宗が鎌倉や京都に最高の寺格を有する5ヶ寺を定めて順位をつけた五山十刹(ごさんじっせつ)の制をしき、五山文学を中心とする禅宗文化を大いに
発展させましたが、曹洞宗はこうした中央の政治権力との結びつきをさけ、地方の民衆の中にとけこんで、民衆の素朴な悩みにこえ、地道な布教活動を続けていきました。
しかし、長い歴史の間には宗門にも色々な乱れや変化が起こりました。
江戸時代になると、徳川幕府による「寺檀(じだん)制度」の確立によって、寺院の組織化と統制が加えられる一方、宗学(しゅうがく)の研究を志す月舟宗胡(げっしゅう そうこ)、卍山道白(まんざん どうはく)、面山瑞方(めんざん ずいほう)等の優れた人材が出て、嗣法(しほう)の乱れを正して道元禅師の示された面授嗣法(めんじゅしほう)の精神に帰るべきことを主張した宗統復古(しゅうとうふっこ)の運動や、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』をはじめとする宗典(しゅうてん)の研究、校訂、出版などが盛んに行われました。
明治維新となり、神道を中心に置こうとする新政府は、神仏を分離して仏教を廃止しようとする廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)を断行し、仏教界に大きな打撃を与えました。
しかし仏教界の各宗もよくこの難局に耐え、曹洞宗には大内青巒居士(おおうち せいらん こじ)が出て『修証義(しゅしょうぎ)』の原型を編纂し、その後總持寺の畔上楳仙(あぜがみ ばいせん)
禅師、永平寺の滝谷琢宗(たきや たくしゅう)禅師の校訂を経て宗門(しゅうもん)布教の標準として公布され、在家化導(ざいけけどう)の上に大きな役割を果たしました。
こうしてわが宗門は、今日全国に約1万4千5百の寺院と、520万の檀信徒を擁する大宗団に発展し、未来にむけて更に前進しようとしています。