栄西
臨済宗は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ,鎌倉仏教のひとつです。
中国禅宗の祖とされる達磨から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓山宝林寺の慧能の弟子の1人である南嶽懐譲から、馬祖道一百丈懐海、黄檗希運と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄によって創宗された。
彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。
宋代の大慧宗杲と曹洞宗の宏智正覚の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」がその特徴として認識されるようになる。
日本には栄西以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。
黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。
歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。
歴史
鎌倉と京都を中心に、武家や皇室の帰依で、次々に創せられた禅刹は、のちに室町幕府の成立とともに、夢窓疎石を開山とする、天竜寺と相国寺を軸に再編され、新しい五山十刹制下に置かれた。
日本臨済宗の主流は、大慧とともに圜悟に次ぐ、宋朝臨済宗の少数派であった虎丘紹隆の系統である。
江戸時代の初め、隠元隆の来朝を期として、従来は五山の外に置かれた大徳寺と妙心寺の新しい動きから、中国・日本の禅の流れを総括し、24流とする説が現れる。
栄西の黄竜宗、道元の曹洞宗、その他を除くと、約20流が虎丘下に属する。
虎丘の宗旨が日本の好みに応じたのであり、白隠の公案禅はその集大成といえる。
教義
日本における臨済宗の発展は、公案禅を踏まえる、宋朝文明の日本化とされる。たとえば、修行と悟りの過程を、牧童が牛を訓練するのに例え、10枚の絵と歌によって説く、2種類の「十牛図頌」がある。
ともに北宋中期のものだが、一はおもに中国で流行し、一は日本だけに受容された。
前者は牛を飼いならし終わって、牧童が牛とともに天に昇り、その姿を消し去るところを理想とし、一個の円相で示す。
後者はこれを第八位に引き下げ、第九位に花咲き水流れる自然を、第十位に布袋を担いで町角に立つ人物を描いて、これを悟りの生きざまとする。
とりわけ、前者の最後の円相を、後者が10枚の絵の背後に置くのは、頓悟(とんご)的な見性体験と、その日常化の思考を示すもので、これが日本民族の好みとなる。京都の禅寺を中心に五山文学や書跡、水墨美術をはじめ、茶の湯、能楽、建築、庭園など、日本で日常生活に即した禅文化の発生をみるのも、理由のないことではない。
天龍寺
禅宗では特定の本尊は立てません。
これは「人間は生まれながらにして仏性をもち、本来みな清浄である」という、お釈迦さまの悟りの体験を自己の内に自覚することを重視しているためです。
そのため本尊にこだわりはなく、仏殿正面には、釈迦如来像または、薬師如来、観音菩薩、文殊菩薩などをまつっているところもあります。
脇には禅宗の始祖達磨大師像、開山祖師の像などがまつられます。
他の宗派はお釈迦さまの説いた経典をよりどころとしていますが、禅宗では、お釈迦さまの悟りの体験を重視するため、特定の経典へのこだわりはありません。
ただ、古くからの習慣として、「大般若波羅蜜多経」「金剛般若経」「般若心経」「法華経」の観世音菩薩普門品などの経典が読まれ、「白隠禅師坐禅和讃」や「宗門安心章」など、また公案に使われる祖師一代の語録などもよく読まれます。
修行僧は師家(指導者)から出された公案にと取り組み、坐禅や作務のあいだも公案に苦しんだ結果、何らかの悟りを得て師家の部屋に行き、その内容を説明(入室参禅)します。
公案自体がおよそ論理的ではない直感の塊だから、修行僧も師家も発言は論理的ではなく激しい問答が繰り返され、時には棒で打たれることもあります。
それが「禅問答」です。
なぜ禅問答を行うかといえば、禅宗は自己を見つめつくす体験であり、悟りの内容は言葉や文字では表現しずらいものです。
修行の段階によっては悟りは何回も訪れるが、そのときの師家は「それ、そこだ。それが悟りだ」と、何かをつかみかけている修行僧に直ちに示してやることができます。
現在の臨済宗は14派に分かれ、各派ごとに本山を有します。
もともと臨済宗では本山を定めず、中国の南宋の五山制度を模した形態が設けあっれていました。
建長3年には鎌倉の建長寺を第一とする五山が、政権が京都に移った建武元年には京都を中心に五山が定められました。
鎌倉派と京都派、武家禅と公家禅など寺格をめぐって対立が激しくなったため、至徳3年に鎌倉・京都の双方に五山制度が定められました。
京都は、南禅寺を別格として、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺。
鎌倉五山は、建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺。
さらにそれぞれの下に十刹が定められています。
以来、変遷をへて五山十刹制度は消え、現在に14派本山となっています。
密教寺院が山岳に建てられたのに比べ、禅院は飛鳥時代と同じく平地に整然と配置されました。
禅宗の七堂伽藍は、山門(三門)、仏殿、法堂、僧堂、庫院(庫裏=台所)、東司(西浄=トイレ)、浴室からなります。
台所やトイレ、浴室まで伽藍に含むのは、禅が日常生活すべてを修行の場と考えるからです。
また、その配置は人体にたとえられ、法堂は頭、仏殿は腹、山門は股、僧堂は右手、庫院は左手、東司は右足、浴室は左足を現します。
本来、戒名は仏弟子になった証で、臨済宗では生前に公案を会得し、導師から授かるものです。
院(殿)号は、古くは寺院を建立寄進した貴人につけられた尊称ですが、いまは社会やお寺への貢献と信仰心のあつい人につけられます。
ほかにも軒・庵・斎など住居の名が尊称として用いられます。
道号は、性別や生前の徳、業績をあらわします。
法号は、性格や性別・年齢、そして生前の徳により、禅定門・禅定尼・居士・大姉・信士・信女(成人)・童子・童女(15歳以下)・孩子・孩女(幼児)・嬰子・嬰女(乳児)などがつけられます。
道元が興した曹洞宗も修行の方法は坐禅です。
しかし坐禅に対する心構えがまったく違います。
臨済宗は坐禅を悟りに達する手段と考え、その最中に、公案を思索し工夫する「公案禅」ですが、曹洞宗は坐禅に目的も意味も求めずただ黙々と壁に向かって坐禅する「只管打坐」です。
臨済宗の「看話禅」に対して、曹洞宗は「黙照禅」といいます。
また、曹洞宗は一般民衆の間に、臨済宗は鎌倉幕府の庇護のもと上級武士層にひろまったため「臨済将軍、曹洞土民」といわれました。
栄西は、備中国吉備津宮の神官の子で11歳で天台教学を学び、14歳で比叡山に登りました。28歳で宋に渡り、天台の経典を持ち帰ったが、宋で知った禅をきわめようと47歳で再入宋。
臨済宗黄竜派の虚庵懐敞に師事し、5年目に印可を得て帰国。博多に我が国最初の禅寺聖福寺を開くが、天台宗僧徒の激しい非難をあびて、朝廷から禅停止の命を受ける。
栄西は「興禅護国論」を書いて天台密教の僧として一生を終えるが、著書の最後に禅は再興すると予言して、日本臨済宗の開祖として仰がれます。
一方、道元は、比叡山で天台教学を学び、栄西の門下となって禅を習い、栄西の弟子明全について宋に渡りました。
そこで、曹洞宗の天童如浄に師事し、師の「坐禅中は身心脱落なるべし」という言葉によって悟りを得、日本に帰り、越前の永平寺を拠点に独自の禅風を興しました。
仏壇とは、お寺の本堂を小さくしたようなものですから、本尊をまつることが基本です。
仏壇には位牌も安置しますが、原則として本尊が主で、位牌は従という関係となります。
臨済宗では各派ともほぼ共通して釈迦如来(釈迦牟尼仏)像を本尊としてまつります。
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